2024年7月3日、20年ぶりに紙幣が刷新される。今のところ話題の中心は図柄であるが、新紙幣の技術的な目玉は3Dホログラムによる偽造防止だ。
電子マネーやクレジットカードなどによるキャッシュレス決済が普及しつつあるが、ATMや自動販売機、セルフレジなど紙幣が入出力される機械は、まだまだ身近に多数存在する。紙幣刷新に伴いこれらの紙幣識別装置を交換する必要があるため、関連産業に特需が発生する。
予め、新紙幣の仕様が公開されているため、対応技術について多数の特許出願が行われている。特許を取得した企業は利益率が高まり、特需による売上アップとの相乗効果によって財務状況が上向き、上場企業であれば株価の上昇が期待される。
そこで、紙幣識別に関連する特許情報を分析し、有望な特許を保有する上場企業に投資を行い、その株価の推移を確認してみたい。
紙幣刷新の概要
新一万円札には実業家の渋沢栄一が、新五千円札には津田塾大学創設者の津田梅子が、新千円札には細菌学者の北里柴三郎が、肖像画として表の図柄に採用される。裏の図柄は各々、東京駅舎、花のフジ(藤)、葛飾北斎の富嶽三十六景の一つ「神奈川沖浪裏」である(図表1参照)。
図表1.紙幣図柄概要
出所:日本銀行のホームページから高野誠司特許事務所が情報を転記
紙幣には「透かし」などの偽造防止技術がいくつも盛り込まれている。ホログラムもその一つで、現紙幣でもホログラムは付されているが、新紙幣は3Dホログラムの肖像によって偽造防止対策が強化されている。3Dホログラムを採用した紙幣は、世界初となる。偽造防止技術については、日本銀行のホームページに詳細な説明があるのでこちらを参照いただきたい。
なお、現二千円札は、約20年間製造されておらず、今回の刷新の対象にはなっていない。ちなみに、硬貨については、500円硬貨が先行して2021年11月に刷新されている。他の硬貨の刷新は今のところ発表されていない。
新紙幣発行で恩恵を受ける企業
特需が予想される企業として最初に思い浮かぶのは、ATM(現金自動預け払い機)を製造している沖電気工業や、自動販売機を製造している富士電機など電気メーカーである。
次に思いつく企業は、ATMや自動販売機の部品を製造するメーカーである。紙幣を入出力する装置はユニット化され、外部から調達しているはずで、紙幣識別装置に特化した企業が存在するに違いない。
インターネットで調べてみると、紙幣識別装置は「ビルバリデータ」(Bill Validator)あるいはその略称である「ビルバリ」と呼ばれていて、馴染みのない企業が製造している。更に掘り下げると、紙幣認識装置は光センサーなど様々な部品から構成されている。
ちなみに、紙幣認識装置は、ATMでは「紙幣鑑別機」、自動販売機等では「紙幣識別機」と呼ばれていて、真贋判定の精度や処理速度が異なる。
特許保有数はグローリーが断トツ
紙幣識別に関する特許は、遊技やゲームに関連するものを除いて498件確認できた。そのうち10件以上の特許を保有している企業は図表2の通りである。なお、一部グループ会社については名寄せを行い集約して簡易表記している。保有特許の数はグローリー株式会社(以下「グローリー」という)が断トツであることが分かる。
図表2.紙幣識別特許保有企業
出所:高野誠司特許事務所調べ
紙幣識別に関する特許のうち、ホログラムの技術を特許請求の範囲に含むものは僅かで、2件確認できた。うち1件は米国企業の特許で、もう1件がグローリーの特許第7085942号(以下「G942特許」と略す)である。
G942特許は、非可視光の透過率が異なる模様の上に目視可能な模様を重ね合わせることを特徴とした偽造防止構造体やその真贋識別装置等である(詳細は特許公報参照、ただし後に訂正請求あり)。赤外線や紫外線によって透過率が異なる模様に重ねたホログラムやそれを識別する装置が権利範囲に該当すると考えられる。
日本銀行ホームページの説明では、新紙幣のホログラムがどの様な層構成になっているか読み取れないが、図らずも(新紙幣発表前の特許出願であるにもかかわらず)、G942特許の効力が及ぶ構成になっている可能性がある(図表3参照)。
現紙幣は、紫外線に反応する特殊インキが印影部分のみに用いられ、ホログラムの部分と重なっていないが(図表3左参照)、新紙幣では、特殊発光インキ域内にストライプ型ホログラムが包含され、層の上下関係はわからないが、ストライプ域の一部が紫外線に反応しているように見える(図表3右参照)。紫外線に反応することと透過率は科学的には異なるが無関係ではない。
図表3.現紙幣と新紙幣の紫外線による反応
(赤色線内はホログラム、青色破線内は主な特殊発光インキ域)
出所:日本銀行のホームページの画像に高野誠司特許事務所が加筆
このG942特許は、2018年8月22日に出願され、拒絶理由通知を受けることなく2022年6月9日に特許権の設定登録がされ、同年6月17日に特許掲載公報が発行された。しかし、2022年12月16日に第三者から異議申立があり、グローリーは特許の取消を回避するため訂正請求書を提出したが、2023年11月14日に特許庁は取消理由通知を行った。
本コラムは、この取消の予告に基づき、当初(2024年2月)、「幻の特許に大きな価値」と題して執筆を開始した。しかし、その後グローリーは更に訂正請求書を提出し、特許庁がこれを受理、形勢が逆転し、2024年5月22日に特許を維持する決定が下された。
G942特許の経過と株価の推移
グローリーの株価推移は、図表4の通りである。紙幣刷新の発表直後、一時ストップ高になった。一方、2022年2月27日にG942の公開公報が発行され、同年6月17日に特許掲載公報が発行されたが市場の反応は鈍い。同社は、紙幣識別に関する特許を百件以上保有し、恒常的に特許を取得しているため、優れた特許が成立しても、市場が適宜それを察知し反応することはないのかもしれない。
ただ、G942特許の存在が、ライバル企業にとって障害になった蓋然性が高い。新紙幣の仕様が公開され、紙幣識別装置の開発に着手して暫くしたところで特許が成立したからだ。訂正請求によって権利範囲が減縮されたとしても、2年間ライバル企業はG942特許を迂回するなど開発変更を余儀なくされ、特需を十分に享受できなかった可能性がある。
図表4.グローリー(証券コード6457)の株価チャート(月足)とG942特許の経過
出所:Yahoo!ファイナンスのデータに高野誠司特許事務所がコメント付与
グローリーの株価チャートは、カップウィズハンドル(右側の取っ手付きカップの形状、図表4の黄色部分)を形成中に見える。教科書的に言えば、株価が急騰しやすいパターンで、間もなくエントリーポイント(投資タイミング)になる。奇しくも新紙幣発行のタイミングと重なる。
特許の価値
G942特許は、絶妙のタイミングで特許になり、訂正請求によって権利範囲は減縮されたものの、特許異議申立の審理が長期化したことで、ライバル企業は、新紙幣発行直前まで、特許出願当初の特許請求の範囲を意識して開発をせざるを得なかったはずだ。
ライバル企業からすると、今更訂正で減縮された権利範囲がフリー技術になっても、これまでの設計・開発方針を変更することは困難である。G942特許を迂回したことにより偽造防止機能を十分に盛り込めなかった可能性がある。
仮に、G942特許の権利範囲が新紙幣の仕様から外れていて、ライバル企業に大きな影響を与えなかったとしても、グローリーは他に多くの紙幣識別に関連する特許を有しているため、新紙幣識別装置の開発を優位に進めることができたに違いない。
おそらく2024年4月以降に紙幣識別装置の納品がピークを迎えるため、2024年度の同社の売上や利益は相応の数字になると予想する。特需は紙幣識別装置のリプレースが一巡したところで終わり、今後キャッシュレス化が進むため、財務指標へのインパクトは一過性とみる投資家もいるが、保守料が長期にわたり入ってくることや、今回のリプレースによる市場の寡占化の速度が、市場の収縮の速度を上回ることも考えられる。
とはいえ、いずれ関連産業は斜陽になることから、新領域での事業開拓は必須であろう。今後のグローリーの新規事業展開に期待し、財務状況や株価の推移を見守りたい。
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知財投資家・弁理士 高野誠司